2011/12/14

植木等愛用ギターGibson ES-175

植木等愛用ギター Gibson ES-175

植木等の芸能界スタートがジャズミュージシャンだったことをご存知だろうか。
終戦間もない昭和20年代のことである。

当時はGHQが日本を統治し、多くの米兵がキャンプに駐留していわゆるクラブがあちこちにあった。
そのためミュージシャンの絶対数が足らず、楽器ができれば何でもOKの状況があったわけだ。

食糧難の当時、そこに行けば銀シャリとステーキがあったという。
「これ家に持って帰っていいか?」とオヤジさんは聞いたそうだが、take outはNOだったらしい。

クラブでのミュージシャン需要の多さに目をつけ、斡旋からマネジメントとして事業を開始したのが渡辺プロダクション創業者の渡辺晋・美佐夫妻である。

仕事にありつくために必死に教則本を片手にギターの練習をしたとオヤジさんはインタビューで語っている。
その努力が楽譜を読める能力を身につけさせ、楽器はできるが楽譜が読めないミュージシャンが多い中、仕事にありついたのだ。

萩原哲晶とデューク・オクテット、自らのバンド・ニューサウンズ、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、ハナ肇とキューバンキャッツ(→後にクレージーキャッツ)とミュージシャンとして渡り歩いた。
「この世にカミがないならば、この世にカミがないならば・・・、手でふくより仕方がない・・。」などとジャズ喫茶でジョークを飛ばしてそのギャグマンとしての素養を隠しきれないこととなり、冗談音楽を演じるコミックバンドへと変容していったのである。


以後昭和34年に始まる「おとなの漫画」フジテレビ、「シャボン玉ホリデー」日本テレビ、「スーダラ節」、「ニッポン無責任時代」東宝と階段を駆け上がり、昭和のキング・オブ・プロダクション-渡辺プロダクションのトップスターとなった。


植木はNHK「スーダラ伝説・夢を食べ続けた男」で語っている。
「振り返ってみると、ちゃんと通るべき道を通ってきたね」


人間に天命があるならば、人間に宿命があるならば植木等は間違いなく、庶民に娯楽を提供する運命だったといえる。
写真のギターはリバイバルヒットした「スーダラ伝説」コンサートツアーでも使い、晩年まで所持したギター(Gibson ES-175)である。
来年植木等の展示がある博物館で行われるが、できればその際に一般公開したいと考えている。




「およみでない?」

2011/12/08

「植木等」たる条件①

植木等はなぜ『植木等』になり得たか。

『植木等』になるには、ある種の敏感さとある種の鈍感さを合わせ持たねば成立しない。
『植木等』になるということは大スターたる一条件と私は定義する。
この2種の組み合わせは、凡人では持ち得ない、または持つことができない組み合わせなのだ。
そこに超人的に衆望を集め、のし上がっていく素養が隠されているとしたら、やはり天与のものと言えるのではないか。
すなわち生まれた時から、決まっていたのではないのかとも考えさせられる。

<これは誰にもマネできない!植木等「スーダラ節」・動画提供YouTube>


植木の全盛時代本当に寝る時間がなかったらしい。
当時のスタッフ(確か中井章二さんという役者)にスケジュール表を見せてもらったが、超過密スケジュールだった。
それによって植木は体調不良で入院するのだが・・。

この入院後に車の運転は任せた方がいいとなって、あの小松政夫さんがやってくるのである。
小松さんは一般公募で何百人の中から選ばれたと聞いた。


「およみでない?」

2011/12/03

クレージーキャッツの演奏パフォーマンス

<動画提供:YouTube>
ハナ肇とクレージーキャッツの演奏パフォーマンス

これはいつ頃なのだろうか・・。(桜井センリさんと石橋エータローさんの2人ともいるのはヒント:なぜなら桜井さんは石橋さんのトラで入って、居着いたからだ)
オヤジさんが生きていたら、この動画を見せながら談笑できたに違いないと思いながら見せてもらった。

石橋さんと桜井さんの2人がいることから1960年(昭和35年)以降ということになるのだが、司会者がついたクレージーのステージという状況を考えると昭和30年代後半から40年前後ではないだろうか。
映画主演をバリバリやっているころだ。

ふざけてはいるんだけれども、真面目に演奏しているギャップがなんとも言えない冗談さが醸しだされていて、音楽的にもイイ感じである。

感想などは後日・・。

<バンド構成>
ドラムス:ハナ肇 
ギター:植木等
トロンボーン:谷啓
ベース:犬塚弘
サックス:安田伸
ピアノ:石橋エータロー&桜井センリ


「およみでない?」

2011/11/25

ザ・接点 立川談志

立川談志贈呈の添状と『談志楽屋噺』
立川談志さんが亡くなったニュースが流れている。

小さん師匠に入門後、早くから頭角を現して二十代で真打へと昇進した。
その後、本業である落語での活躍はもちろんのこと、笑点の初代司会者、師匠に反抗して落語協会脱退、参議院議員になり政務次官になるも問題発言で辞任などなど話題性に富んだ落語家だった。
噺家のトップスターだったといっても過言ではない。

2003年頃だろうか、植木のオヤジさんから「これお前にやるよ、おもしろいから読んでごらん」と渡されたのが、写真の本『談志楽屋噺』白夜書房1987年である。
本を開いてみると談志さん直筆の添状(走り書?)がはさまっていて、本にも「植木等さん江 立川談志」と書かれていた。

おやじさんはよく本をいただいた。これはお近づきのしるしやお礼の時もあるだろうが、やはり宣伝も兼ねているのは言うまでもない。本を出しましたという植木等(に限らず皆へのだが)へのアピールである。

「談志がサインくれっていうから書いてやったんだよ」とオヤジさんから聞いた。(植木等のサインは芸能人からもよく頼まれた)
おそらく、楽屋か対談なんかで会う機会があったのだろう。そのサインに対する礼がこの本だったんだという趣旨と当時解釈したのだが・・。

クレージーの怪盗ジバゴ

そこで植木等と立川談志の接点をみてみると、1967年東宝映画『怪盗ジバゴ』で共演している。

談志さんは工員役で出演しているが、若いころの談志さんは言われないと私には分からなかった。「あーこれが談志さんだ」という具合。
談志さんのキャスティングがどういった経緯だったのか定かではないが、この共演についてオヤジさんに聞いておけばよかったと思っている。




この『談志楽屋噺』は確かに面白い。一番気に入った所を紹介しよう。
昔の噺家の酒、女、博打で身を持ち崩す人が多数いたことが紹介されていて、噺家の自殺が多いのとメチャクチャな話が多い。
----------------------------以下引用(P36より)--------------------------
朝之助と私と馬次兄ィと三人で池袋の闇市で飲んでた。隣のお客が一杯飲めと酒を注ごうとする。「いいよ、いらない、結構です」と言うのに、どうしても注ぐという。それじゃあてんで、ついでもらって飲んでたら、今度は「おまえのもよこせ」と言う。なんだ、この野郎って顔を私がしたら、馬次が殴っちゃおうと言う。「よしなよ」って言ったら、なんと「頼むから殴らしてくれ」と言う。なんなんだろう、「頼むから殴らせてくれ」―と言うのは・・・・・・。結局、殴っちゃったけど。世の中をすねてたわけでもあるまいに、世間が落語家の若手を拒否したわけでもあるまいに・・・・・・。
----------------------------引用ここまで--------------------------------
(この馬次さんも後に自殺されている)

戦後芸能界(落語も含めて)の一端を表していると思うのだ。
ジャズバンド時代から映画、テレビへと時代が移っていく過程は高度経済成長と重なっている。
とてつもないエネルギーに溢れていて、多くの不条理がまかり通っていた。

談志さんは戦後芸能界を引っ張った植木等に共感していたのではないだろうか。

添状の裏
やぶり取ったような絵葉書(おそらく表紙)はたぶん書くものがなくて、とっさに書かれたのだと思う。

裏を返してみると、「ありがとう」シールが貼られていた。

毒舌で怖そうに映る人物像は裏返しではなかろうか。
『談志楽屋噺』は亡くなっていった噺家への愛情に溢れている。




「およみでない?」

2011/11/16

オヤジさん、この車は勘弁してください・・。

キャデラック・フルサイズリムジン
河口湖旅行でのスナップ-2000年頃

植木等はスターらしく外車を乗り継いできたが、シーマ大事件によって国産車シーマがやってきたことは前に記した。(海外では逆なわけで、もちろんシーマはグローバルにすばらしい車)

シーマを乗るようになって数年経っていただろうから2000年前後じゃないだろうか。植木家ではドイツから愛娘家族が帰郷していて、河口湖へバカンスへ出かけることになっていた。

そんな中、高橋さん(小松政夫さんがオヤジさんの付き人になる前の運転手で、たしか芸能人志望ではなく、植木等が好きでオヤジさんの元にやってきた人)という植木家とは旧知の人が訪ねてきていて、その時河口湖へ出かける話が出た。
「それならうち(高橋さんの勤め先)の社長のキャデラックで行きましょうよ。私が運転しますから。」
と高橋さんの申し出があっさり決まったのだった。

さすがに私は定員オーバーで乗れないから、期間中休みだな♪と期待したのも束の間、
「ああ、大丈夫リムジンだから、藤元さんも乗れますよ・・。」
「・・・・・・・・・・・・。(乗れなくていいのに)」
「お前も来いよ」とオヤジさん。
「分かりました」(断れるわけないよな)

こうして写真のキャデラックで河口湖へ出かけてきたのだが、
道中「このキャデラック買いませんか」セールスが連発されることになる。
高橋さんは別に他意があるわけでなく、単にオヤジさんに乗ってもらいたかったのだろう・・。

「いいよ~キャデラック、ねえいいでしょう?」
「フジモトさんも運転してみてよ」
「いや、運転はいいです、デカ過ぎますよ」
「大丈夫だって、1回乗ればわかるって」
「デカすぎて怖いですよ(こんな車がやってきたらどうなるんだ!)」

ってなやり取りがあって、結局試運転は断り通したのだったが、オヤジさんにも最後まで粘っていただタカハシさん。

それで河口湖でオヤジさんと2人きりになった時、
「どうだ、キャデラック」
「オヤジさんあの車は勘弁してください・・。あの車が家に停まっていて、出かける姿は想像できないです。」
「そうか、わかったわかった、カカカ・・・」

こうして、キャデラック・リムジンが植木家へやってくることは回避できたが、それにしても日本でこの車を乗るってどういうことなんだ。
今では考えられないが、そういえば昔、志村けんさんはリンカーンのリムジンに乗ってたんじゃなかったかな?まさか今は乗ってないだろうけど。

時代だねえ。

「およみでない?」

2011/10/23

植木徹誠 落款「迷骨」

落款「迷骨」

植木徹誠筆「水の五訓」
植木徹誠筆「水五訓」
水五訓の情報→http://ja.wikisource.org/wiki/水五訓

水五訓は黒田如水作との説があるが、これには異論もある
黒田如水作異論説情報→http://d.hatena.ne.jp/




植木等の父 植木徹誠は元浄土真宗大谷派僧侶で共産党員だったが、僧籍に入る前にはキリストの洗礼を受け、マルクス主義を唱え、都都逸唄いをしていたこともあった人物。
植木徹誠情報→http://ja.wikipedia.org/wiki/植木徹誠/

植木等は親父を「支離滅裂」と評した。
植木等著『夢を食い続けた男- おやじ徹誠一代記』朝日新聞社1984年にくわしく記されている。
『夢を食い続けた男』→書籍情報はこちら



植木徹誠さんは晩年親鸞聖人に合わせる顔がないと自戒したという。息子植木等が「スーダラ節」を歌う時に「わかっちゃいるけどやめられないとは親鸞聖人の教えに通ずる」と絶賛したことは有名。

その徹誠さんは揮毫の落款に「迷骨」と記していた。
「人間は骨になっても迷うほど俗なものだということらしい」とはオヤジさん談。


「およみでない?」

2011/10/13

世田谷ベース番組動画:植木号日産シーマ




植木号シーマ<藤元撮影>
シーマ大事件で取り上げた植木号を紹介する世田谷ベース番組動画を掲載しているサイトがありましたので紹介します。 《一般公開されている間掲載します》
シーマ大事件バックナンバー

私が12年間運転した日産シーマFY33型
グレード:41LX / エンジン:V8 4.1L VH41DE / 油圧アクティブサスペンション装備


新車をオーダーする際に、カタログを見てグレードや装備、色などを決めていったのだが、最上級に「VIP」なるグレードが存在した。これはまさに後席優先仕様のエグゼクティブを乗せる仕様なのだが、具体的に後部座席に振動マッサージャー(後席背中に内蔵されている)、助手席背中部分が倒れ左後席のオットマンになるものだった。

2011/10/05

自転車ダイビング大事件<大強運>

私が12年間オヤジさんと過ごして度肝を抜かれたことがいくつかあったが、この話は五指に数えられるかもしれない。

2000年11月植木等は中日劇場「新 名古屋嫁入り物語」の座長として名古屋へ来ていた。
この名古屋嫁入り物語は東海テレビのご当地ドラマとして10年続いた人気作で、大いに期待されて舞台化されたものだ。

たしかこの年は梅田コマ劇場で「ハウ・トゥー・サクシード」、明治座で堺正章公演と3本の舞台に出演したと記憶する。<この年はこの他CM数本とドラマにも出演していたことから、仕事に忙しい年だったと記憶する・。>

このように仕事も順調だったし、体調も悪くはなっていないころだからまだまだ勢いは相当なものだった。
そこで何が私の肝を潰したかというと、オヤジさんは自転車に乗って客席へダイブしたのである!
この時私も舞台上で共演しており、なんと舞台上からオヤジさんが自転車にノッて客席へ飛ぶのを見ていたのだ。

中日劇場写真

2011/09/29

植木ロイド・ボーカロイド・エンジン3にバージョンアップ

9月27日ニコニコ動画生放送・松武秀樹の「テクノスクール」にてメカ植木(植木等版ボーカロイド)がバージョン3の新エンジンにアップされたことを発表し、楽曲「植木節」(作詞・作曲比呂公一)が披露された。

私の会社モッシュはメカ植木ボーカロイドの製作サポートで、社長の比呂さんが「植木節」を作詞・作曲という関係。

7月24日の「テクスク」にて初めてメカ植木の存在が公にされ、同時に発表された「植木節」はバージョン2のボーカロイドによるものだった。
7月24日メカ植木ページ

今回はメカ植木に本腰のヤマハが発売前!?のエンジン3を提供・搭載したボーカロイド<メカ植木>と「ぼかりす」<VocaListener>を、前回同様とくPがマニピュレート。

→ボーカロイド・バージョン3のヤマハ公式サイト

ニコニコ動画での反応はかなり熱かったとか!!
今後はさらに完成度を高める作業を進行させつつ・・・・、メカ植木の画像を一般公募するとの未確認情報も囁やかれているとか・・。

そして最終的に目指すものは・・・。
メカ植木ソフトの発売はあるのか!?
「植木節」CD・配信はあるのか!?

乞うご期待!


「およみでない?」

2011/09/24

植木等と仏教・親鸞聖人

寺田康順編『親鸞聖人』真浄寺刊2005年

ここに1冊の本がある。
これは亡くなる前に植木等が病室で読んだ最後の本である。


  • 少年時代小僧として修行した浄土真宗大谷派真浄寺(東京都文京区)・寺田康順住職の刊行
  • 寺田康順住職とは小僧時代から真浄寺で共に生活した間柄で、住職が亡くなるまで毎年正月と盆はかかさず真浄寺へ挨拶に伺っていた
  • 植木等は父植木徹誠、母いさほの三男(長男徹は戦死、二男勉は幼くして病死)として生まれる
  • 父はキリストの洗礼を受けながら得度して僧侶となった支離滅裂な人物と植木に例えられる
  • 母は三重県伊勢市小幡西光寺の息女、徹誠はいさほとの結婚がきっかで仏弟子となった
  • 三重県多気郡宮川村の常念寺住職なった父とともに檀家周りをしていた
  • 徹誠は戦中戦争反対を公言して投獄されたことにより、先を案じた母によって教育が受けられる真浄寺へ小僧に出された
  • 真浄寺では僧侶となる修行をしたが得度せず、東洋大学を卒業して芸能界へ
  • 芸能界へ進んだ後も生涯仏弟子であり、親鸞聖人の生き様に影響を受けていた

仏教の教えでは彼岸があり、極楽浄土へ行くのだとか。現にオヤジさんは佛に向かって手を合わせていた。
しかし私は生前のあの言葉が忘れられない。

「お前あの世なんてあると思うか」
「いやあ、どうなんでしょうね。オヤジさんはどう思いますか」
「そんなのあるわけねえよ、死んだらお終い、それだけ」


「およみでない?」

2011/07/24

植木等版ボーカロイド発表!!


ボーカロイドというヤマハが開発した技術がある。
一躍有名にしたのは初音ミクだが、このソフトは音声を自由自在に操り唄わせるソフトなのだ。

このソフトの植木等版と楽曲「植木節:呼びました?」(作詞・作曲・編曲:比呂公一、マニピュレート:松武秀樹とくP)が本日7月24日ニコニコ動画生番組「テクスク」にて公式発表された。
<出演者>・松武秀樹 相沢舞 ゲスト:剣持秀樹(ヤマハ・ボーカロイド開発責任者) 高野寛

私の会社モッシュは社長の比呂さんが上記の通り「植木節」作詞・作曲をして、またメカ植木・ボーカロイドソフトの製作サポートをしている。

生放送視聴希望者が並び始めた・・ニコニコ本社

植木等版ボーカロイドのなにがすごいかというと、このソフトは本来生きている人の声を録音してデータベース化して唄わせるようにするものだが、亡くなった人間の歌声を復活させるところにある。
ようするに、亡くなった人間からは声を録音できないことから、データベースがつくれない=ボーカロイドはつくれないはずなのだ。

植木等版ボカロをマニピュレートするとくP
ところが生前録音した音声データ(スーダラ節などの原盤マルチトラック音源データ)を抽出し、それを植木等の長男・比呂公一が録音した音声データを変換して植木等の声で自在に唄わせるソフトを作ってしまったのが植木等版ボーカロイドのすごいところなのだ。

この技術は世界初で、その第一弾が植木等となった。
実はこの企画数年前から極秘裏に進められ、今日ようやく発表となったのだが、発表曲「植木節」(比呂公一作詞・作曲)ができあがったのはなんと昨日!
昨日までHUMstudioにて植木等版ボーカロイドをマニュピレートしてくれたのはとくP


「およみでない?」

2011/06/23

シーマ大事件④完

シーマ大事件③からのつづき

シーマが凹んでいる状況について聞くべく、急ぎ植木邸へ入ろうとしたのだが、その前に無意識的というかとっさににシーマセールスマンに私は問うた。
「シーマは保険入ってますよね?」
「・・・はい」:セールスマン
<これを聞いたのは、凹んだ原因が○○だろうというコンセンサスが暗黙の中に存在しているのを感じたのと、○○をかばう本能が働いたのだろうと思い返すのだが・・・>
確認して私ら3人は家へ入っていった。

「帰りました」と玄関で言い、セールスマン2人を招きいれた。
「おう」とリビングから植木の声。
私を先頭に3人がリビングに進み、あの・・と口から今今出ようとするその寸前に、
「どうだった?」と植木が勢いのある声で聞いてきた。
どうだったって・・・・、こっちが気合入れて問おうとしている時に先を取られたのである。

人間まったく予想してない展開がくると、どうなるかご存知だろうか。(立会いで高見盛から張り手されたようなものだ)3人はまさに”ハトが豆鉄砲くらったような顔”をしていたに違いなく、私は段取りが狂ったことに対応し切れなかった。

2011/06/16

シーマ大事件③

-シーマ大事件②からの続き-

BMWとシーマの2台を試から乗車して良い方に決めるということになって、まずはBMWから試乗することになった。
BMWのセールスマンは当然助手席に乗り込んだのだが、シーマのセールスマンは植木と2人残されるのを緊張から敬遠したのか、少し遅れて私も乗りますテイで後部席に乗りこんだ。

いよいよ試乗である。
BMWは5シリーズの運転をしたことがあったが、7シリーズは初めてである。5シリーズではスポーティーな印象を持っていたが、7シリーズでもラグジュアリーさがありつつも走りが自慢と、セールスマンはやたら走行性をプッシュしてくる。(自分とこの車を買ってもらわないと意味がないのだから当たり前か)

環八から小田急線脇の道に入り、駅前ロータリーを転回して元きた道を戻る。走行性といわれても、これくらいの距離と道では感じようがなかったのが正直なところ。
まあセールスマンに期待させるためにも、「いいですね~」てなことを答えながら坂道を登っていった。この丘を登りきって少し下ったところが植木邸だ。

フロントノーズがアップサイドからダウンサイドへと向きを変え、植木邸の塀とその前に真っ白なシーマのテールランプが見えた。オヤジの姿は見えない。家に入ったのだろう。

乗り換えるべくシーマの後ろに車を停めて3人が降りた。
発売したばかりのシーマはまだ座席にビニールが被っているのだからまさに新車、植木等に見せるためにおろしてきたのかもしれない。
とその時、シーマのセルスマンが突飛な声を出した。
「あれっ!」
何事かと私ともう一人が声の方へ近寄ると、シーマの左後ボディーがベッコリ凹んでいるではないか!
「ええーっっ」
私もこんなふうに叫び、もう1人も同じようなリアクションをしたと思う。
とにかく3人ともすぐに状況が飲み込めなかったのと、とくにシーマのセールスマンは焦りまくっていた。当然だろう、シートにビニールが被ったままのまっさらシーマがおもいっきり凹んでいるのだから・・・・。

状況とこれに至った可能性を分析しつつ、まず1人残ったオヤジに話を聞いてみることにしよう。


-つづく-

2011/06/10

シーマ大事件②

<シーマ前の植木号・メルセデス・ベンツW126>
高速走行性が高評価・直線は地面に吸いつくと表現された・フロントマスクは威圧感のカタマリである
(当然ながらこのナンバー車はもう存在していない)
シーマ大事件①より続き>

植木家へ上がると植木とセールスマン2名がソファに座っていた。
片方のセールスマンは植木が懇意にしている自動車屋さんだ。

「おう、来たか」と植木。
「新しい車に取り替えるからって連絡したら、乗り比べてくださいってことだから。ベンベと日産な、これ2台乗って、いい方に決めるから。」(ベンベ=BMW、日産=シーマ)
「じゃあ、早速行くか」

ってことになって、外へ。
車庫には上写真のベンツが存在感大きく停まっていて、セールスマンがチラチラ目線を送っている。下取り勘定があるのだろう・・。

「じゃあまずお前ベンベ乗ってこいよ。おれは待ってるから」こう言われて、
「そうですか、じゃあ行ってきます」となった。

日産のセールスマンは自分とこのシーマを売りたいに決まってるわけだから、BMWに乗ってもしょうがないのだが、私がどういう反応なのか気になったのと、残されて植木と2人きりになっても緊張するだけで遠慮したのもあったのか・・。私も乗りますと言って、結局私とBMWのセールスマン、日産のセールスマンの3人がBMW740iに乗り込んでの試乗となった。

この後起こるアンビリーバブルな<大事件>がそこまで迫ってきていた・・。


-時間がないから続きは後で・つづく-

「およみでない?」

2011/06/06

シーマ大事件①

<いわゆる植木号実車・私が運転していた頃の日産シーマFY33型>
グレード:41LX / エンジン:V8 4.1L VH41DE / 油圧アクティブサスペンション装備
(実は41LXではなく「VIP」を購入するはずだった・この話も後ほど)
所さんの楽しい犬 (NEKO MOOK 1222 所ジョージの世田谷ベース 10)<ナンバーは現在も同じ(所さんオーナー)・35の2桁がイイですね♪
「このままで乗りますよ」と引渡し時の所さん談>
掲載誌(左写真)→『NEKO MOOK1222 所ジョージの世田谷ベース』
BSフジ(TV)→『所さんの世田谷ベース:第38回』>

この車は雑誌にも掲載され、テレビでも放送されたのでご存知の方も多いでしょうかね。

わかっとるね?そう、今は所ジョージさんの世田谷ベースに在る「植木号」(ネーミング所ジョージ:詳しくは雑誌参照)です。
このシーマは新車から所さんのところにいくまでの12年間、私が運転していた(オヤジさんが運転するはずもなし)とても愛着のある車なのです。

植木等はスターらしく多くの車を乗り継いできました。昭和40年ころにはサンダーバードと初代日産プレジデントの2台持ちの頃があったとか。(なんという組み合わせだ!)
車は2台を常に所有していました。これはいざ故障時に慌てないようにとのこと。

シーマの前はベンツで、その前もベンツというように外車好きだった植木がなぜ国産車にしたのか。
これには驚くべきエピソードがあったのだ。(このエピソードは私と植木しか知らないはず!?)

2011/05/06

『Discover Japan』"やりたいことと、やらなければならないことは別" by 植木等

Discover Japan 6月号


Discover Japan (ディスカバー・ジャパン) 2011年 06月号

エイ出版社 2011-05-06


・特集 元気が出る言葉
■ニッポンを元気にした偉人の言葉 ”植木等”
<解説:藤元康史>


5月6日発売・『Discover Japan』枻(えい)出版社に「ニッポンを元気にした偉人の言葉」として、植木等『やりたいことと、やらなければならないことは別』が掲載され、この言葉を私が解説しています。


昭和芸能史において「植木等」は最も功を残した人物の1人といったら、賛同する意見は多いはずだ。
昭和芸能界に君臨したキング・オブ・プロダクション「渡辺プロダクション」のトップスターとして歌・映画・舞台・テレビにと活躍したことは、今でも色あせていない。
では、恵まれた環境の中、思い通りに芸能界を泳いでいったかというと、全くそうではなかったのだ。

2011/05/02

ザ・接点「植木等と志村けんの関係」

1995年植木の弟子となってから2007年に没するまで、植木等と志村けんは一度も顔を合わせていない。・・・・・・はずである。私が志村さんと会っていないのだから。

しかし一度だけ、近いところに志村さんが来たことがあった。
1996年明治座で植木が座長をした「大江戸気まぐれ稼業」の楽屋での話。

某芸能プロ代表「植木さん、今志村けんが客席で観てるわよ、若い女の人と一緒」
植木「志村観てんの?ふ~ん」

この日志村さんは植木の楽屋に顔を出さなかった。
なぜだろうか。


2011/04/26

「HUM STUDIO」をオープン

5月に「HUM STUDIO」をオープンします。
HUMは「Hitoshi Ueki Memorial」の頭文字で、植木等に関する展示を併設します。

スタジオは一般非公開・スタジオのフォト、動画がアップ予定です。

植木等と仏教・六方拝(寄稿予定)

戦前、寺で小僧として修行=生活し、その後僧侶とはならずに芸能界へと進んだ植木等。

<植木等と仏教・六方拝>は時間を作って寄稿予定・・

2011/04/16

NHK「どうも!にほんご講座です。」にて植木等「お呼びでない」

NHK「どうも!にほんご講座です」にて植木等の「こりゃまた失礼いたしました」が取り上げられるというので視聴する。
NHK「こりゃまたしつれいいたしました」ページ

<「こりゃまた失礼いたしました」が昭和のすばらしい名台詞なんじゃ>という話でオープニング
そのあとコントに突入して、桜金造がビザとピザを掛けわわせて登場・・・・・・、
左に「お呼びでない?」、右に「お呼びでないね?」「こりゃまた失礼いたしました」で退場
続いてヒザに「゛」を貼って・・・・と続き、「またまたお呼びでない?」・・・「こりゃまた失礼いたしました」・・・・となってオチ

まず笑ったのは桜金造さんがお呼びでないをやることである。
桜さんは元渡辺プロダクションにいたそうで、私は植木と桜さんについて話をしたことを今でも憶えている。それはこんな話だ。


2011/04/15

「お呼びでない」ギャグ誕生諸説③:小松トチリ説の否定

「お呼びでない」誕生諸説について考証してきたが、ここで小松トチリ説の否定を決めておきたい。

<小松トチリ説を話す植木・映像提供YouTube>

以下検証

2011/04/14

サクラサク



植木等が晩年まで住んだ世田谷区砧からほど近い砧公園の桜は見事です。
植木もぷらっと散歩しに行くことがありました。


震災から1ヶ月を経て、ようやく春がきました。
この桜、最良の日です。

何が起きようとも、命あるかぎりまた咲くのでしょう。
がんばろう日本!

(今年は1週間遅いのだとか。自宅近くにて)

2011/04/11

「お呼びでない」ギャグ誕生諸説②マエタケ説「テレビの黄金時代」より

「お呼びでない」ギャグが小松政夫トチリから生まれたという説を前回に解説したが、小松さん自身がこの説を否定していることから、小林信彦『テレビの黄金時代』2002年文藝春秋を開いてみることにする。

----------------------------------------------------------------------------------
以下「テレビの黄金時代」P136より、

<お呼びギャグ>の発生については、3つの説がある。
1.秋元近史ディレクターにぼくがきいた話。
「『シャボン玉』の前身『魅惑の宵』で、作者の前田武彦さんが、その場面と全く関係のない人物になって登場するという悪戯をやっているうちに生まれたものです」

2.おそらく『魅惑の宵』であろう。「忠臣蔵」をやり、赤垣源蔵、大石主税、堀部安兵衛、神崎与五郎とならんで、五人目に板垣退助がいるという落ち。これは前田武彦が青島幸男に語ったという起源である。

2.は前田武彦自身が書き、演じたものと考えれば、あり得ることである。
要は、秋元ディレクターが1の発想を非常に面白がって、しつこくくりかえしたことだと思う。プロデューサー兼ディレクターが乗らなかったら、こんなギャグは成立しない。
「シャボン玉ホリデー」がスタートして一年半は、ほとんど秋元近史がひとりで演出に当たっているが、・・・・・・
----------------------------------------------------------------------------------

植木本人から小松説を聞き続けていた私としては、なかなか受け入れ難い内容となっている。
しかし、よく考えてみたい。
植木の記憶はかなり曖昧なことが多々あったことを思い起こした。


2011/04/01

植木等誕生日のエピソード

植木等の誕生日がなぜ実際と戸籍上が違ってしまったのかを記しておきたい。
ウィキペディアを参考にさせていただきながら、確認・解説してみたいと思う。

■1926年12月25日 愛知県名古屋市で出生(戸籍上は1927年2月25日)

これは通説・wikipediaの通りで、大正天皇崩御の日に生まれ、父親が体を壊していた等の理由(なぜ他人に出生届の手続きを頼んだか、私も本人から曖昧にしか聞けていない)で叔父保之助へ出生届を頼んだが、叔父が届出を忘れてしまったために翌年になった。
生まれた25日が大正最後のなので翌日12月26日は昭和元年になり、年が開けて1月1日は大正2年になったため、戸籍上は大正15年から昭和2年になったということである。
本人は表向き昭和生まれとなったことはイメージ的に「良かったよ~」と語っていた。

 この届けが遅れて出生日が変わった話は植木本人から何度も聞いているが、届出を3ヶ月叔父が忘れていたというのはどうも疑問に思っている。
これは植木の母実家である伊勢西光寺に機会があれば聞いてみたい。


私は植木没後に1人伊勢西光寺を訪れ、植木の話や植木の父徹誠氏の話などを聞かせていただいた
また植木生前の話だが、名古屋中日劇場出演中の合間に、三重県栗谷の常念寺跡も1人訪れている。

2011/03/28

小松さんからの電話

夜携帯の着歴・留守電に気付く。
留守電を再生すると小松政夫さんからだった。
昨日が植木命日だったことから電話をくれたようだ。

かけ直してみたが、留守電になったのでメッセージを残す。
終わるとすかさず小松さんからの電話が鳴る。

久しぶりの会話で、お互いの近況などを話し、
また近いうちにメシを食いにいこうと誘ってもらった。
(植木没後にも2人でおつかれ会をして、2人ともどうやって帰ったか記憶にないほど飲んだ)

そして小松さんに電話をもらうという絶好の機会がきたので、「お呼びでない」ギャグ誕生について改めて聞いてみた。



2011/03/27

本日は命日なり

3月27日は植木等の命日です。
今年で没後4年、月日の過ぎ往く波にただ身をあずけるばかりです。

まだ公にできませんが、植木等に関する音楽企画を進行させています。
またこれは公にできますが、Hitoshi Ueki音楽スタジオを近日開設します。

人の縁とは不思議なものですが、今も植木等の大きな傘に守られて生活できることに感謝しなければならないと思う今日この頃です。

2011/03/23

戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』小学館2010年

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない」

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」
戸井 十月
小学館 2007

・藤元康史インタビューはP229~「エピローグ」に掲載 
『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられな !」』は小学館週刊ポストに連載されていたものを単行本化したものだ。 小学館週刊ポスト2007年1月26日号

著者の戸井十月氏は映画「風の国」で脚本・監督をし、植木は出演者という関係があった。
(これは映画プロデューサーの村上元一氏(通称がんさん)のキャスティングによるものと思われる)
映画出演以降、戸井氏との関係はなかったが、戸井氏の父、画家の戸井昌造氏の没後個展に植木が出かけた際に再会している。(これは私も憶えている)

その後植木、戸井が会う機会はなかったが、元TBSディレクターの砂田実氏(砂田・植木の関係)と戸井氏の接点より、植木等伝の執筆を戸井に依頼されたという経緯がある。
したがって、砂田氏は『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない」』においてプロデューサーなのである。事実、植木へのインタビュー全てに砂田氏は立ち会い、また伊勢への取材旅行にも同行された。

植木伝では生まれから最晩期まで、植木自身のインタビューによって振り返っている。
もちろん私も全てのインタビューに同席したが、本でも記されている通り、爆笑が幾度となく起きた。「お呼びでない」などはやることがわかっていても、やはり笑えるのだ。こういうギャグはそう滅多にあるものではないだろう。

私へのインタビューははP229~「エピローグ」に掲載された。
<本文より>
植木は私に人間としてどうあるべきかを体現し、どう生きるべきか示してくれた。私にとってこれがなによりも尊いことである。植木等は清らかだった。

2011/02/12

植木等・愛用の「パイプ」

植木等愛用のパイプ


写真のプレートにある通り植木は愛煙家でした、昔まではね。
クレージー映画を撮っていた頃はピース(いわゆる缶ピース)を吸っていたそうで、随分きついタバコを吸っていたもんです。
私が弟子となった1995年にはパイプで吸うということはしていませんでしたから、結構前に使っていたパイプということになります。

プレートは愛用品展示を頼まれた際に、依頼者によって作成されたようで、
「好きなパイプで好きなハッパを吸う時、生きている歓びをつくづく感じる。」は植木の言葉だと聞いています。

パイプは20~30本持っていましたから没後に家族は知人・友人に多くをプレゼントしていました。
このパイプは没後ではなく、生前に植木から「お前に1本やるから好きなの選びな」と言われ、素人ながら一番高そうなのを選んだものです(笑)。
選んだ後に「どれが一番高いと思う」と聞かれたので、自分の手にしたやつを「これじゃないですかね」と言うと、「これなんだよ」と全く見当違いのものと教えられました。最初に教えて欲しかったっていうの!

でもこういうものは高い、安いではありません。自分が気に入るか、気に入らないかですから。
じゃあ元に戻って、これが一番高いんだけどどれにするって聞かれてても、やっぱりこれを選んだはずです。

現在はデスク上のトレイに置いて時おり眺めています。
ちなみに写真のパイプを置いているところがそのデスクですが、この机は植木が書斎で使っていた愛用品で、これまで多くの台本を載せ、読み込んできた場所なのです。
今は私が譲り受けて大切に使っています。

パイプを手に取るとハッパのいい匂いがします・・・・・。
パイプについて一応書いとこう、分かる人がいるかも知れないから。
「Butz Choquin STCLAUDE FRANCE1596」と刻印

2011/02/02

「お呼びでない」ギャグの誕生諸説①

「お呼びでない」ギャグとは、
植木等の代表的なギャグで、あるストーリー上まったく突飛であったり、つながりのない人物(植木等)が登場して「お呼びでない、お呼びでないね・・・・・、こりゃまた失礼いたしました」と去っていくものです。

このギャグの誕生エピソードとしてはいくつかあり、どれが真相なのかを考えてみたい。
もちろん私も生前の植木から直に聞いているのですが、はたしてそれが正しいのかも考えてみたいのです。

諸説は以下に記します。


[1]植木等の付人だった小松政夫が、オヤジの出番をとちってしまった

おそらくこれが正しいと一番多く周知されているのではないでしょうか。シチュエーションとしてはこうです。
シャボン玉ホリデーにて当時植木の付人であった小松政夫さんが、植木の出番がきたと勘違いし、セット裏で待機していた植木に「オヤジさん出番です!」と言った。
出とちってしまったと思った植木は大慌てでセットに飛び出したが、実際にはまだ前のコントが終わっておらず、逆の意味で植木の出とちり?となってしまった。
当然そのコントの出演者は、あれ?植木さんなんででてきちゃったんだ??となり、しばし沈黙があった。
植木も、あれ?まだおれの出番じゃなかったの?と思ったが戻りようがない、なんせ生放送だから!
植木は瞬間的に反応したのだろう、「お呼びでない、お呼びでないね・・・・こりゃまた失礼いたしました!」といって引っ込んだ。
この台本にない出来事が、なんとも言えない面白さを生み、ディレクターの秋元近史さんが、これは面白いっていうんで毎週やろうということになった。


これは本人が言ってるんだから間違いないだろうと普通は考えますよね。
ところが小松政夫さんは植木等お別れの会の弔辞にて、このエピソードについてこう語っている。
「お呼びでないギャグは小松の勘違いから生まれたと、オヤジさんはおっしゃってますが、本当だとしたら私は付人失格です。あれはオヤジさんが、私のために面白いエピソードをつけてやろうという思いやりじゃなかったんでしょうか。私はそう思っております。」
細かい言葉づかいが違うところがあるかも知れませんが、大方合っているはずです。私も生で聞いていたのですから。

小松さんのこの話が本当だとすると、お呼びでないギャグはどうやって生まれたのか。
これに対する説を小林信彦さんが著しているので検証してみたい。

時間がないので今日はここまで、私の論考も含めて後日記すことにします。

2011/01/21

砂田実 著『気楽な稼業ときたもんだ』



『気楽な稼業ときたもんだ』
砂田 実
無双舎 2010


「植木等ショー」、伝説のCM「アイデアル」、『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」などなど、昭和30年代から晩年まで植木と関わりを持った砂田実さんの著書


無双舎サイト:砂田実 著『気楽な家業ときたもんだ』


「ショクナイ」の帝王としてに奮闘記が綴られ、植木とのエピソードも出てきます。
植木等、砂田実、戸井十月、堀越マネージャ、藤元康史のメンバーで、戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない」』小学館(週刊ポストに連載され、後に単行本化)の取材旅行を植木号シーマに乗って伊勢まで出かけたのです。

CM「アイデアル」アイデア&ディレクティングが砂田さんだったとは!
実は砂田さんは最後に植木ともうひと仕事したかったのです。

植木が最後入院している折に、私の携帯へ様子を伺う電話をもらっていました。私は本当の容態を知らせることができなかったのですが、後に砂田さんは「話す様子でなんとなくわかっていましたよ」とのことだった。

これは植木没後に、私をディーナーへ誘ってくださった折にあった会話である。砂田さんは慶應出身の何とも品の良い紳士であるが、あの品性は生まれなのか育ちなのか・・・。たしか結婚されたと聞いた・・4回目の。

なお植木等はCM「アイデアル」によって日本放送作家協会賞を受賞し、ブロンズトロフィーが贈られている。


「およみでない?」

2011/01/14

これから哲学してくこと

これから以下のことがらを取り上げていきたいと考えています。


  • 昭和最大のスターとはだれか。
  • 植木等になぜ国民栄誉賞は贈られなかったか
  • スターに必要なものとは
  • 植木等は自分をどうとらえていたか
  • 植木等の一生について
  • 植木等の思想について
  • 植木等の仕事(舞台・映画・ドラマ・歌)について

2011/01/09

瓶底メガネ



このメガネは植木の遺品で、私がプロフィール写真でシャレでかけているメガネです。
私に「面白いだろ?」といってくれたものですが、くわしく何で使ったかは聞かずじまいでした。
何かしらコントで使用していたはずですので、時間があるときに調べてみようと思っています。

波平頭に瓶底メガネのスタイルは加藤茶さんが有名ですね。
加藤さんが「ドリフはクレージーをパクリました。」(注1)
と発言していることから、ひょっとすると加藤さんの瓶底メガネはこのメガネを参考にしているかもしれません。

ちなみにこの眼鏡には『イワキ』の文字があります。
あのイワキの特注品ということになるでしょうか。

植木の遺品のなかでも、実際に小道具として使用していた貴重なものです。


2011/01/02

植木別邸より望む正月の日の出


正月駿河湾を臨む植木別邸へ出かけ、海際の部屋から日の出を迎える。
植木没後もうすぐ4年・・・・といことは、植木と出会って15年ということだ・・・。
社会人になってからの期間を思うと、大半は植木家で過ごしたということになるのか。

ここには植木と2人でもよく訪れました。
生前の植木もこの水平線から昇る日の出を眺めていたのです。

「およみでない?」

2011/01/01

DODA(デューダ)から植木等の弟子となる

『DODA』1995年7月号


私の手元に1冊の求人情報誌(写真)がある。
1995年7月当時、学生援護会(現インテリジェンス)から発刊された『DODA(デューダ)』である。

このざら紙束のなかの1ページに「植木等の運転手募集」という求人広告が掲載されているのだが、その欄内、渡辺プロダクションという文字が目に飛び込んだことによって、私の人生が大きく変わったのだ。

当時私は学生援護会の井上美悠紀社長(現エイエヌオフセット会長)の秘書(これは名目だが実際に子会社社員だった)という扱いのもと、渡辺プロダクションの井澤健社長を紹介してもらえるという話で、関西より上京し職と住まいを与えられていた。(なんと!上京当時は井上社長の別荘逗子マリーナに住ませてもらっていた)

当時のよく覚えている事は、いざ井澤社長へアポイントをとる電話を秘書がかけてくれた時、井澤社長の秘書が「井澤は横綱貴乃花の結婚披露宴に出席のため留守です」と応対したことだ。

この後ほぼ既定路線というか、井澤健社長と面会する機会が到来することはなく、私は無力失望の日々を送ることになる。
与えられていた仕事は学生援護会が発刊する求人情報誌を運搬する仕事で、毎日これを繰り返していた。
・・・こういう展開が待っているとは知らずに。

はじめに(改訂版)

植木等考』を記していくにあたり、まえがきさせていただきます。

私は1995年7月20日から2007年3月27日に植木等が亡くなるまで、弟子として12年植木と生活を共にしました。
その後も植木家との縁は続き、現在は植木長男の音楽家:比呂公一(植木廣司)の事務所、株式会社モッシュにて内では取締役という身分をいただき、外では芸能活動、音楽制作、マネジメントなどを主として活動しています。

植木没後まもなく4年を迎えるにあたり、自分が12年密接し感じた「植木等」を深く見つめなおしてみたいとの思いと、忘れていく記憶を留めておきたい気持ちより、これを記していきます。