植木等愛用ギター Gibson ES-175 |
植木等の芸能界スタートがジャズミュージシャンだったことをご存知だろうか。
終戦間もない昭和20年代のことである。
当時はGHQが日本を統治し、多くの米兵がキャンプに駐留していわゆるクラブがあちこちにあった。
そのためミュージシャンの絶対数が足らず、楽器ができれば何でもOKの状況があったわけだ。
食糧難の当時、そこに行けば銀シャリとステーキがあったという。
「これ家に持って帰っていいか?」とオヤジさんは聞いたそうだが、take outはNOだったらしい。
クラブでのミュージシャン需要の多さに目をつけ、斡旋からマネジメントとして事業を開始したのが渡辺プロダクション創業者の渡辺晋・美佐夫妻である。
仕事にありつくために必死に教則本を片手にギターの練習をしたとオヤジさんはインタビューで語っている。
その努力が楽譜を読める能力を身につけさせ、楽器はできるが楽譜が読めないミュージシャンが多い中、仕事にありついたのだ。
萩原哲晶とデューク・オクテット、自らのバンド・ニューサウンズ、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、ハナ肇とキューバンキャッツ(→後にクレージーキャッツ)とミュージシャンとして渡り歩いた。
「この世にカミがないならば、この世にカミがないならば・・・、手でふくより仕方がない・・。」などとジャズ喫茶でジョークを飛ばしてそのギャグマンとしての素養を隠しきれないこととなり、冗談音楽を演じるコミックバンドへと変容していったのである。
以後昭和34年に始まる「おとなの漫画」フジテレビ、「シャボン玉ホリデー」日本テレビ、「スーダラ節」、「ニッポン無責任時代」東宝と階段を駆け上がり、昭和のキング・オブ・プロダクション-渡辺プロダクションのトップスターとなった。
植木はNHK「スーダラ伝説・夢を食べ続けた男」で語っている。
「振り返ってみると、ちゃんと通るべき道を通ってきたね」
人間に天命があるならば、人間に宿命があるならば植木等は間違いなく、庶民に娯楽を提供する運命だったといえる。
写真のギターはリバイバルヒットした「スーダラ伝説」コンサートツアーでも使い、晩年まで所持したギター(Gibson ES-175)である。
来年植木等の展示がある博物館で行われるが、できればその際に一般公開したいと考えている。
「およみでない?」