2011/12/14

植木等愛用ギターGibson ES-175

植木等愛用ギター Gibson ES-175

植木等の芸能界スタートがジャズミュージシャンだったことをご存知だろうか。
終戦間もない昭和20年代のことである。

当時はGHQが日本を統治し、多くの米兵がキャンプに駐留していわゆるクラブがあちこちにあった。
そのためミュージシャンの絶対数が足らず、楽器ができれば何でもOKの状況があったわけだ。

食糧難の当時、そこに行けば銀シャリとステーキがあったという。
「これ家に持って帰っていいか?」とオヤジさんは聞いたそうだが、take outはNOだったらしい。

クラブでのミュージシャン需要の多さに目をつけ、斡旋からマネジメントとして事業を開始したのが渡辺プロダクション創業者の渡辺晋・美佐夫妻である。

仕事にありつくために必死に教則本を片手にギターの練習をしたとオヤジさんはインタビューで語っている。
その努力が楽譜を読める能力を身につけさせ、楽器はできるが楽譜が読めないミュージシャンが多い中、仕事にありついたのだ。

萩原哲晶とデューク・オクテット、自らのバンド・ニューサウンズ、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、ハナ肇とキューバンキャッツ(→後にクレージーキャッツ)とミュージシャンとして渡り歩いた。
「この世にカミがないならば、この世にカミがないならば・・・、手でふくより仕方がない・・。」などとジャズ喫茶でジョークを飛ばしてそのギャグマンとしての素養を隠しきれないこととなり、冗談音楽を演じるコミックバンドへと変容していったのである。


以後昭和34年に始まる「おとなの漫画」フジテレビ、「シャボン玉ホリデー」日本テレビ、「スーダラ節」、「ニッポン無責任時代」東宝と階段を駆け上がり、昭和のキング・オブ・プロダクション-渡辺プロダクションのトップスターとなった。


植木はNHK「スーダラ伝説・夢を食べ続けた男」で語っている。
「振り返ってみると、ちゃんと通るべき道を通ってきたね」


人間に天命があるならば、人間に宿命があるならば植木等は間違いなく、庶民に娯楽を提供する運命だったといえる。
写真のギターはリバイバルヒットした「スーダラ伝説」コンサートツアーでも使い、晩年まで所持したギター(Gibson ES-175)である。
来年植木等の展示がある博物館で行われるが、できればその際に一般公開したいと考えている。




「およみでない?」

2011/12/08

「植木等」たる条件①

植木等はなぜ『植木等』になり得たか。

『植木等』になるには、ある種の敏感さとある種の鈍感さを合わせ持たねば成立しない。
『植木等』になるということは大スターたる一条件と私は定義する。
この2種の組み合わせは、凡人では持ち得ない、または持つことができない組み合わせなのだ。
そこに超人的に衆望を集め、のし上がっていく素養が隠されているとしたら、やはり天与のものと言えるのではないか。
すなわち生まれた時から、決まっていたのではないのかとも考えさせられる。

<これは誰にもマネできない!植木等「スーダラ節」・動画提供YouTube>


植木の全盛時代本当に寝る時間がなかったらしい。
当時のスタッフ(確か中井章二さんという役者)にスケジュール表を見せてもらったが、超過密スケジュールだった。
それによって植木は体調不良で入院するのだが・・。

この入院後に車の運転は任せた方がいいとなって、あの小松政夫さんがやってくるのである。
小松さんは一般公募で何百人の中から選ばれたと聞いた。


「およみでない?」

2011/12/03

クレージーキャッツの演奏パフォーマンス

<動画提供:YouTube>
ハナ肇とクレージーキャッツの演奏パフォーマンス

これはいつ頃なのだろうか・・。(桜井センリさんと石橋エータローさんの2人ともいるのはヒント:なぜなら桜井さんは石橋さんのトラで入って、居着いたからだ)
オヤジさんが生きていたら、この動画を見せながら談笑できたに違いないと思いながら見せてもらった。

石橋さんと桜井さんの2人がいることから1960年(昭和35年)以降ということになるのだが、司会者がついたクレージーのステージという状況を考えると昭和30年代後半から40年前後ではないだろうか。
映画主演をバリバリやっているころだ。

ふざけてはいるんだけれども、真面目に演奏しているギャップがなんとも言えない冗談さが醸しだされていて、音楽的にもイイ感じである。

感想などは後日・・。

<バンド構成>
ドラムス:ハナ肇 
ギター:植木等
トロンボーン:谷啓
ベース:犬塚弘
サックス:安田伸
ピアノ:石橋エータロー&桜井センリ


「およみでない?」