2011/01/01

DODA(デューダ)から植木等の弟子となる

『DODA』1995年7月号


私の手元に1冊の求人情報誌(写真)がある。
1995年7月当時、学生援護会(現インテリジェンス)から発刊された『DODA(デューダ)』である。

このざら紙束のなかの1ページに「植木等の運転手募集」という求人広告が掲載されているのだが、その欄内、渡辺プロダクションという文字が目に飛び込んだことによって、私の人生が大きく変わったのだ。

当時私は学生援護会の井上美悠紀社長(現エイエヌオフセット会長)の秘書(これは名目だが実際に子会社社員だった)という扱いのもと、渡辺プロダクションの井澤健社長を紹介してもらえるという話で、関西より上京し職と住まいを与えられていた。(なんと!上京当時は井上社長の別荘逗子マリーナに住ませてもらっていた)

当時のよく覚えている事は、いざ井澤社長へアポイントをとる電話を秘書がかけてくれた時、井澤社長の秘書が「井澤は横綱貴乃花の結婚披露宴に出席のため留守です」と応対したことだ。

この後ほぼ既定路線というか、井澤健社長と面会する機会が到来することはなく、私は無力失望の日々を送ることになる。
与えられていた仕事は学生援護会が発刊する求人情報誌を運搬する仕事で、毎日これを繰り返していた。
・・・こういう展開が待っているとは知らずに。



いつものルーティンをこなしていたある日、予備分としてパレットに積まれた廃棄待ちの『DODA』が目に付いた。
社長のコネ、すなわち特別待遇でいる私は妬みの対象であり、はっきりいってお荷物だったろう。それを強く感じていた私は、別の職場を探すために無価値になる寸前のDODAをパラパラとめくりだしたのだ。

最初は1つずつ丁寧に見ていたものの、次第にめくる間隔は狭まり、ほぼパラパラ漫画のようになった。
あっという間に全部をめくったはずだったが、めくり終わってから渡辺プロダクションの文字が頭に残った。残像というやつだ。
最後からさかのぼって1枚ずつ探し、私は目当ての渡辺プロダクションの文字をみつけ、
「これだ!」とおそらく叫んだと思う。
その求人欄には「植木等の運転手募集」と掲載されていた。

私的には植木等の運転手に応募するというよりも、渡辺プロダクションのなにかの募集に応募するという意識が強かったのを、はっきりと憶えている。
なぜらなこの時私は植木等がかつての大スターだったとは全く知らなかったからだ。
知っていようがいなかろうが、ノータイムで私は植木等運転手への応募を決めた。

<中省略>
応募後、当時のSマネージャーの面接、植木の面接を経て植木等の職業運転手としてではなく、付き人運転手として採用が決まった。
なぜ付き人運転手となっかというと、私が弟子としての扱いを強く希望したからである。

一連のことを井上社長へ報告にいくと、「植木さんってあの植木等さん?そりゃよかったなあ。ハナさんとはよく酒飲んだ仲だけど、そりゃあ良かった」と喜んでくれ、その後に私にとって大事な言葉が発せられた。
「誠心誠意尽くせばきっと伝わる、がんばれ」(井上美悠紀社長はこの時言葉と、分厚い財布から餞別をくれた)

この言葉を深く胸に込めて、退路のない長い植木との生活が始まった。
まさかこの時、将来自分が植木等の最後を看取るとは想像するはずもなかった・・。


「およみでない?」


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