2011/01/21

砂田実 著『気楽な稼業ときたもんだ』



『気楽な稼業ときたもんだ』
砂田 実
無双舎 2010


「植木等ショー」、伝説のCM「アイデアル」、『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」などなど、昭和30年代から晩年まで植木と関わりを持った砂田実さんの著書


無双舎サイト:砂田実 著『気楽な家業ときたもんだ』


「ショクナイ」の帝王としてに奮闘記が綴られ、植木とのエピソードも出てきます。
植木等、砂田実、戸井十月、堀越マネージャ、藤元康史のメンバーで、戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない」』小学館(週刊ポストに連載され、後に単行本化)の取材旅行を植木号シーマに乗って伊勢まで出かけたのです。

CM「アイデアル」アイデア&ディレクティングが砂田さんだったとは!
実は砂田さんは最後に植木ともうひと仕事したかったのです。

植木が最後入院している折に、私の携帯へ様子を伺う電話をもらっていました。私は本当の容態を知らせることができなかったのですが、後に砂田さんは「話す様子でなんとなくわかっていましたよ」とのことだった。

これは植木没後に、私をディーナーへ誘ってくださった折にあった会話である。砂田さんは慶應出身の何とも品の良い紳士であるが、あの品性は生まれなのか育ちなのか・・・。たしか結婚されたと聞いた・・4回目の。

なお植木等はCM「アイデアル」によって日本放送作家協会賞を受賞し、ブロンズトロフィーが贈られている。


「およみでない?」

2011/01/14

これから哲学してくこと

これから以下のことがらを取り上げていきたいと考えています。


  • 昭和最大のスターとはだれか。
  • 植木等になぜ国民栄誉賞は贈られなかったか
  • スターに必要なものとは
  • 植木等は自分をどうとらえていたか
  • 植木等の一生について
  • 植木等の思想について
  • 植木等の仕事(舞台・映画・ドラマ・歌)について

2011/01/09

瓶底メガネ



このメガネは植木の遺品で、私がプロフィール写真でシャレでかけているメガネです。
私に「面白いだろ?」といってくれたものですが、くわしく何で使ったかは聞かずじまいでした。
何かしらコントで使用していたはずですので、時間があるときに調べてみようと思っています。

波平頭に瓶底メガネのスタイルは加藤茶さんが有名ですね。
加藤さんが「ドリフはクレージーをパクリました。」(注1)
と発言していることから、ひょっとすると加藤さんの瓶底メガネはこのメガネを参考にしているかもしれません。

ちなみにこの眼鏡には『イワキ』の文字があります。
あのイワキの特注品ということになるでしょうか。

植木の遺品のなかでも、実際に小道具として使用していた貴重なものです。


2011/01/02

植木別邸より望む正月の日の出


正月駿河湾を臨む植木別邸へ出かけ、海際の部屋から日の出を迎える。
植木没後もうすぐ4年・・・・といことは、植木と出会って15年ということだ・・・。
社会人になってからの期間を思うと、大半は植木家で過ごしたということになるのか。

ここには植木と2人でもよく訪れました。
生前の植木もこの水平線から昇る日の出を眺めていたのです。

「およみでない?」

2011/01/01

DODA(デューダ)から植木等の弟子となる

『DODA』1995年7月号


私の手元に1冊の求人情報誌(写真)がある。
1995年7月当時、学生援護会(現インテリジェンス)から発刊された『DODA(デューダ)』である。

このざら紙束のなかの1ページに「植木等の運転手募集」という求人広告が掲載されているのだが、その欄内、渡辺プロダクションという文字が目に飛び込んだことによって、私の人生が大きく変わったのだ。

当時私は学生援護会の井上美悠紀社長(現エイエヌオフセット会長)の秘書(これは名目だが実際に子会社社員だった)という扱いのもと、渡辺プロダクションの井澤健社長を紹介してもらえるという話で、関西より上京し職と住まいを与えられていた。(なんと!上京当時は井上社長の別荘逗子マリーナに住ませてもらっていた)

当時のよく覚えている事は、いざ井澤社長へアポイントをとる電話を秘書がかけてくれた時、井澤社長の秘書が「井澤は横綱貴乃花の結婚披露宴に出席のため留守です」と応対したことだ。

この後ほぼ既定路線というか、井澤健社長と面会する機会が到来することはなく、私は無力失望の日々を送ることになる。
与えられていた仕事は学生援護会が発刊する求人情報誌を運搬する仕事で、毎日これを繰り返していた。
・・・こういう展開が待っているとは知らずに。

はじめに(改訂版)

植木等考』を記していくにあたり、まえがきさせていただきます。

私は1995年7月20日から2007年3月27日に植木等が亡くなるまで、弟子として12年植木と生活を共にしました。
その後も植木家との縁は続き、現在は植木長男の音楽家:比呂公一(植木廣司)の事務所、株式会社モッシュにて内では取締役という身分をいただき、外では芸能活動、音楽制作、マネジメントなどを主として活動しています。

植木没後まもなく4年を迎えるにあたり、自分が12年密接し感じた「植木等」を深く見つめなおしてみたいとの思いと、忘れていく記憶を留めておきたい気持ちより、これを記していきます。