5月に「HUM STUDIO」をオープンします。
HUMは「Hitoshi Ueki Memorial」の頭文字で、植木等に関する展示を併設します。
スタジオは一般非公開・スタジオのフォト、動画がアップ予定です。
2011/04/26
2011/04/16
NHK「どうも!にほんご講座です。」にて植木等「お呼びでない」
NHK「どうも!にほんご講座です」にて植木等の「こりゃまた失礼いたしました」が取り上げられるというので視聴する。
《NHK「こりゃまたしつれいいたしました」ページ》
<「こりゃまた失礼いたしました」が昭和のすばらしい名台詞なんじゃ>という話でオープニング
そのあとコントに突入して、桜金造がビザとピザを掛けわわせて登場・・・・・・、
左に「お呼びでない?」、右に「お呼びでないね?」「こりゃまた失礼いたしました」で退場
続いてヒザに「゛」を貼って・・・・と続き、「またまたお呼びでない?」・・・「こりゃまた失礼いたしました」・・・・となってオチ
まず笑ったのは桜金造さんがお呼びでないをやることである。
桜さんは元渡辺プロダクションにいたそうで、私は植木と桜さんについて話をしたことを今でも憶えている。それはこんな話だ。
《NHK「こりゃまたしつれいいたしました」ページ》
<「こりゃまた失礼いたしました」が昭和のすばらしい名台詞なんじゃ>という話でオープニング
そのあとコントに突入して、桜金造がビザとピザを掛けわわせて登場・・・・・・、
左に「お呼びでない?」、右に「お呼びでないね?」「こりゃまた失礼いたしました」で退場
続いてヒザに「゛」を貼って・・・・と続き、「またまたお呼びでない?」・・・「こりゃまた失礼いたしました」・・・・となってオチ
まず笑ったのは桜金造さんがお呼びでないをやることである。
桜さんは元渡辺プロダクションにいたそうで、私は植木と桜さんについて話をしたことを今でも憶えている。それはこんな話だ。
2011/04/15
「お呼びでない」ギャグ誕生諸説③:小松トチリ説の否定
「お呼びでない」誕生諸説について考証してきたが、ここで小松トチリ説の否定を決めておきたい。
<小松トチリ説を話す植木・映像提供YouTube>
以下検証
以下検証
2011/04/14
サクラサク
植木等が晩年まで住んだ世田谷区砧からほど近い砧公園の桜は見事です。
植木もぷらっと散歩しに行くことがありました。
震災から1ヶ月を経て、ようやく春がきました。
この桜、最良の日です。
何が起きようとも、命あるかぎりまた咲くのでしょう。
がんばろう日本!
(今年は1週間遅いのだとか。自宅近くにて)
2011/04/11
「お呼びでない」ギャグ誕生諸説②マエタケ説「テレビの黄金時代」より
「お呼びでない」ギャグが小松政夫トチリから生まれたという説を前回に解説したが、小松さん自身がこの説を否定していることから、小林信彦『テレビの黄金時代』2002年文藝春秋を開いてみることにする。
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以下「テレビの黄金時代」P136より、
<お呼びギャグ>の発生については、3つの説がある。
1.秋元近史ディレクターにぼくがきいた話。
「『シャボン玉』の前身『魅惑の宵』で、作者の前田武彦さんが、その場面と全く関係のない人物になって登場するという悪戯をやっているうちに生まれたものです」
2.おそらく『魅惑の宵』であろう。「忠臣蔵」をやり、赤垣源蔵、大石主税、堀部安兵衛、神崎与五郎とならんで、五人目に板垣退助がいるという落ち。これは前田武彦が青島幸男に語ったという起源である。
2.は前田武彦自身が書き、演じたものと考えれば、あり得ることである。
要は、秋元ディレクターが1の発想を非常に面白がって、しつこくくりかえしたことだと思う。プロデューサー兼ディレクターが乗らなかったら、こんなギャグは成立しない。
「シャボン玉ホリデー」がスタートして一年半は、ほとんど秋元近史がひとりで演出に当たっているが、・・・・・・
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以下「テレビの黄金時代」P136より、
<お呼びギャグ>の発生については、3つの説がある。
1.秋元近史ディレクターにぼくがきいた話。
「『シャボン玉』の前身『魅惑の宵』で、作者の前田武彦さんが、その場面と全く関係のない人物になって登場するという悪戯をやっているうちに生まれたものです」
2.おそらく『魅惑の宵』であろう。「忠臣蔵」をやり、赤垣源蔵、大石主税、堀部安兵衛、神崎与五郎とならんで、五人目に板垣退助がいるという落ち。これは前田武彦が青島幸男に語ったという起源である。
2.は前田武彦自身が書き、演じたものと考えれば、あり得ることである。
要は、秋元ディレクターが1の発想を非常に面白がって、しつこくくりかえしたことだと思う。プロデューサー兼ディレクターが乗らなかったら、こんなギャグは成立しない。
「シャボン玉ホリデー」がスタートして一年半は、ほとんど秋元近史がひとりで演出に当たっているが、・・・・・・
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植木本人から小松説を聞き続けていた私としては、なかなか受け入れ難い内容となっている。
しかし、よく考えてみたい。
植木の記憶はかなり曖昧なことが多々あったことを思い起こした。
2011/04/01
植木等誕生日のエピソード
植木等の誕生日がなぜ実際と戸籍上が違ってしまったのかを記しておきたい。
ウィキペディアを参考にさせていただきながら、確認・解説してみたいと思う。
■1926年12月25日 愛知県名古屋市で出生(戸籍上は1927年2月25日)
これは通説・wikipediaの通りで、大正天皇崩御の日に生まれ、父親が体を壊していた等の理由(なぜ他人に出生届の手続きを頼んだか、私も本人から曖昧にしか聞けていない)で叔父保之助へ出生届を頼んだが、叔父が届出を忘れてしまったために翌年になった。
生まれた25日が大正最後のなので翌日12月26日は昭和元年になり、年が開けて1月1日は大正2年になったため、戸籍上は大正15年から昭和2年になったということである。
本人は表向き昭和生まれとなったことはイメージ的に「良かったよ~」と語っていた。
この届けが遅れて出生日が変わった話は植木本人から何度も聞いているが、届出を3ヶ月叔父が忘れていたというのはどうも疑問に思っている。
これは植木の母実家である伊勢西光寺に機会があれば聞いてみたい。
私は植木没後に1人伊勢西光寺を訪れ、植木の話や植木の父徹誠氏の話などを聞かせていただいた。
また植木生前の話だが、名古屋中日劇場出演中の合間に、三重県栗谷の常念寺跡も1人訪れている。
これは植木の母実家である伊勢西光寺に機会があれば聞いてみたい。
私は植木没後に1人伊勢西光寺を訪れ、植木の話や植木の父徹誠氏の話などを聞かせていただいた。
また植木生前の話だが、名古屋中日劇場出演中の合間に、三重県栗谷の常念寺跡も1人訪れている。
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