2012/01/14

保沢紀インタビュー② 渡せなかった上着

昭和34年「おとなの漫画」(フジテレビ・演出:椙山浩一)が始まった頃のクレージーキャッツやオヤジさんのことを聞いてみた。

保沢さんが高校を卒業した当時は就職難だったそうで、東京衣装の社長が学校の先輩だったツテで入社したとのこと。東京の右も左も分からないいわゆるお上りさん状態だったが、何せ番組スタートから8ヶ月休みなしで放送したわけだから、いやでも関係は深まり気心が知れてくるのは当たり前で、クレージーのメンバーには可愛がってもらったそうである。
「おい、今日な銀座の◯◯だからな、お前見に来いよ」とか「おい、飯喰いに行くけど一緒に来るか」
というようなことだったらしい。しかし8ヶ月休みなしの生番組とはいったいそういうことなんだ。大変だっただろうが、クレージーにしてみれば毎日テレビに出られるわけで、それまで一部のコアなファン層が一気に全国区へと広まったのだ。おそらく毎日が楽しくて仕方がなかったのではないだろうか。この辺は植木婦人に今度聞いてみようと思う。(私は今でも植木婦人の元へ1ヶ月に1回程のペースで通う)
これがいよいよスター街道を駆け上っていく始まりであり、「テレビの黄金時代」の始まりである。小林信彦詳しくはテレビの黄金時代 (文春文庫)参照

衣装さんの仕事とはその名の通り、劇に使用する衣装を用意し、扮装させることである。
おとなの漫画の場合、時事ネタを生でやるわけで、「朝刊の紙面からネタをひろって書くわけですから」と作家陣である青島幸男さん、砂田実さん両氏から同じ話しを聞いたことがある。
昼の番組だからゆっくり本を練ってもいられないわけで、出来上がるとスタッフが手書きで!できたての台本を写して配ったそうである。

でき上がった台本をもとに衣装を用意するわけだが、そんなんで間に合うんですか?と聞くと、「だいたい今日はこのネタだから登場人物がこうなるとか分かるわけだよな」と保沢さん。
そうして、役にあった衣装を毎日提供していたわけである。

ところで、保沢さんにオヤジさんの没後会うのは2度目だ。年末12月にも1度目のインタビューをしている。今回2度目だから、前のものを整理してさらに聞きたいことをまとめて望んだのだが、結構同じ話でループしがちになり(笑)、本線に戻しながら進めていったが、おさらいしながらしたと思えばよかったのかもしれない。

そして実は今回保沢さんに渡したかったものがあったのだ。
それはオヤジさんの自前の衣装なのだが、なぜ保沢さんに植木等の上着をもらってもらいたかったかというと、保沢さんは「おとなの漫画」以降もお正月の名物番組「新春かくし芸」CX(企画はなんとコリャまた椙山浩一さん!!)を担当し、オヤジさんに紋付袴の着付けをされていた。これは仕事なのだから特別な話ではない。じつは保沢さんは番組担当を離れてからも、毎年正月に植木等に紋付袴を着付けするためだけにフジテレビへ足を運んでくださっていたのだ。ボランティアということ。
毎年顔を出して今年も元気ですという挨拶ということだろう。しかし仕事でもないのに嫌な顔1つせずに毎年何十年と来ることができるだろうか。そこに入社以来の保沢さんの気持ちを私は見た。これが保沢さんにもらってもらいたかった理由である。

今回出かける前に保沢さんに電話でオヤジさんの上着を貰ってもらえませんか?と尋ねた。
保沢さんはサイズが無理だよという。背は同じくらいなのを知っていたから、問題は胴、胸回りということになる。
私は「いや、大丈夫でしょう、大丈夫と思います。とにかく持ってってみますから」と電話切った。

photo:ネーム[植木]

いくつか保管している衣装から保沢さんに似合いそうなのを選び持ち、着くなり着てもらったが保沢さんの体には合わなかった。合いませんでしたねえと言う私に、

「俺、プロだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「オヤジさんの体型も知ってるしさ」
「そうでした、プロ中のプロでした」
「気持ちだけもらっとくから」

そうして上着は持ち帰ったのだが、せっかくだから上着にも登場願おう。
見ていただきたいのは襟裏のネームだ。
通常は胸内ポケット付近に入るものだが、オヤジさんの上着の多くはこの襟裏にネームが入っている。遊び心なのか。

私にもいたずらっぽく話されていたのを思い出した。
「これネーム入ってないだろ?」
「ホントですね」
「ここに入ってんだよ(襟をクルッと裏返しながら)、洒落てんだろ」

ちなみに多くの自前衣装を注文したのは[テーラー岩田]である。
素人から見ても仕立ての良さが一目で分かるし、着ればわかるという感じ。オヤジさんの友人に「植木さんどこで服作ってるの?紹介してください」と言わしめたほどである。

大変お洒落れでございましたよ。


「およみでない?」


つづく

2012/01/08

保沢紀インタビュー① 「おとなの漫画」時代

保沢紀さんと筆者

業界伝説の人、「フジテレビ衣装部」保沢紀さんにフジテレビ開局スタートの「おとなの漫画」、クレージーキャッツ、植木等についてインタビューするために八重洲へ出向いた。

説明が必要な方のために、まず保沢さんの説明をしておこう。(一部wikipediaから引用)
名前は保沢紀で「ほざわ おさむ」と読む。私も名前が読めなくて教えていただいた。

1940年栃木県立栃木高校出身で卒業した昭和34年に上京し東京衣装に入社した。高校の同期にはヤマトホールディングス会長有富慶二、京都大学名誉教授入倉孝次郎、キッコーマン社長牛久崇司がいたとある。また高校卒業者には錚々たる顔が並び、公立ながら男子校、かつ伝統校であることから、相当鍛えられ、、また鍛えたものと推察され、鬼の保沢が形成されていったのだろう。

入社と同時に開局したてのフジテレビへ配属され、多くの番組を担当した経緯から「フジテレビ衣装部」などという通名で呼ばれたが、実際はフジテレビに衣装部など存在しなかった。

昭和34年といえばクレージーキャッツの初レギュラー番組「おとなの漫画」が始まった年である。
wikipedeiaによると開局翌日の3月2日!~1964年の12月31日までの約5年間、1835回放送されたと記録されている。
月~土曜日の帯番組で10分間(当初は5分間)の生放送である。しかも当初の5分枠の期間(昭和34年3月2日から11月まで)は日曜日も放送していたというから、8ヶ月間無休でフジテレビへ通ったことになる。
これが事実か保沢さんに聞いたところ、「休みなんかなかったよ」とのこと。事実なのだ。

この当時すでにクレージーキャッツには一部のコアなファンがいた。新宿ACB(アシベ)をはじめとしたジャズ喫茶でのパフォーマンスが受けていたのである。
小林信彦「植木等と藤山寛美」新潮社1992年によるとコーヒーが1杯5、60円の時代、ここではもっと高かったと記されているが、具体的に同著者「日本の喜劇人」新潮文庫1982年では80円(だったと思う)と記されている。

昭和34年の物価というのがあったので深比較してみよう。昭和34年の諸物価
米10Kg 870円・かけそば35円・はがき5円・新聞購読料1ヶ月390円・映画館入場料150円

その当時のコミックバンドとしてのギャグ演奏は日活「竜巻小僧」1960年で見ることができるのだが、残念なことにこの映画は市販されておらず通常では見られない。しかしNHKハイビジョン「スーダラ伝説~植木等・夢を食べ続けた男」(2006年初回放送:演出牛山真一)にインサートされ、私も初めてジャズ喫茶における演奏ギャグを見た。本当に面白いので再放送の機会に是非見ていただきたい。(私は録画をもっている)

今調べてみるとYoutubeに「竜巻小僧」あり、クレージーの演奏部分もあるが、肝心なギャグの部分までは入っていなかった。
竜巻小僧 YouTube


つづく

2012/01/04

ザ・接点 森繁久彌 贈られた詩書画

森繁久彌 詩書画
「百年の樹 百年の樹を伐りて一年の木を植う 誰ぞ知る松柏の心 清流残雪に謳う

世田谷区船橋に「森繁通り」と呼ばれる筋がある。御大森繁久彌さんの邸宅へと小田急千歳船橋駅から通じる道である。
森繁さんは自宅からキャデラックのリムジンで森繁通りを通って砧の東宝撮影所へ通勤された。私も通りから見させていただいた宅地は700坪もあったと御大の弟子である俳優赤城太郎さんから伺ったが、世田谷に個人宅で700坪とはただ驚くばかりである。

植木等と森繁御大の接点はといえば、やはり東宝ということになる。
駅前・社長シリーズを撮られていたわけだから、無責任シリーズの植木とは東宝でよく顔を合わせていたに違いないし、御大が植木の映画に出演されてもいる。

オヤジさんにこんなエピソードを生前聞いた。
「おれが番組コントで森繁さんをパロったハヤシゲ・クサヤを連発したら、森繁さん怒ったねえ・・。俺んちに電話かけてきてハヤシゲ・クサヤとはどういうことなんだ!ふざけるなってさ。カカカカカ・・・」

昔はライバルであるからそれは風当たりも強かったそうだ。
しかし舞台「みおつくし 浪速の花道」東宝1988年での共演(曾我廼家五郎、曾我廼家十郎で森繁は植木に感謝したという。

写真の詩書画は舞台のお礼にと御大から植木へと贈られたものである。

「百年の樹を伐りて一年の木を植う 誰ぞ知る松柏の心 清流残雪に謳う」 久彌
植木等様

その後も舞台「狐狸狐狸ばなし」、NHK「大往生」でも共演している。
私は「大往生」の時には植木に付いてので、この共演を生で見ているのだ。(とてつもない財産)
撮影時に御大は私に言われた「ちょっと、ボク」・・・・・・・・・・・。

詩書画は植木の没後に赤城太郎さんへ贈られた。
額を渡す時に植木邸の小さな灯籠も持っていかれたが、おそらく赤城さんの赤城山山荘に額ともども置かれているはずである。


「およみでない?」